死にたいと思ったとき 脱出を図るための3つのヒント

このページにお越しいただけたということは、貴方が今まさに「即、死にたい」と感じていたり、もしくは「もう消えてなくなってしまいたい」と思っておられるのかもしれません。

この人生の大海原で直面するさまざまに、打ちのめされ絶望しもうどこにも逃げ場がないとそう思い詰めておられるとしたら、まずはそのお気持ちそのものへ心から、そっと寄り添わせていただけたらと感じます。

至るには、それ相応の理由もおありかもしれません。二度と取返しのつかないことをしてしまった、もう死んで償うしかない、死ぬより他に方法がない、そんな極限状態を体験されていらっしゃる方、

とっても屈辱的な場面に遭遇した、「これだけは知られたくなかった」ということが公に露呈した、莫大な金銭トラブルを抱えてしまった、大切な方を亡くされたり、別離を体験し「もう一人では生きていけない」と感じた時など…「死にたい」と思うその背景も人それぞれ。

そんな思いに苛まれているときはどうしても、自らを極まった孤独に追いやってしまいがちなこともあります。だれに相談することなく冷静に、ただひたすらその方法を見いだそうと邁進し、脱出することすら思い浮かばないかもしれません。

しかしいったんその背景を脇に置き、「私は心から本当にそう望んでいるの?」と何度でも何度でもとことん自分に問うた時、その思いにかすかでも「待った!」がかかる瞬間をとらえることができたとき。

それしか選ぶ道も方法もない…という切実へ向けて、「死にたいという思いそのもの」から脱出を図るための3つのヒントを以下にご紹介します。

1、「死にたい」と思っている私は私自身ではない

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私の記憶をさかのぼると「死にたい」という気持ちが沸き始めたのは小学校3年生位の時からでした。そう思うと私にとって、「死にたい」と考えたりそう思うときにセットになって浮上する「絶望感」や「自己不信感」は子どもの頃から、まるで日常茶飯事の当たり前の出来事であったように思います。

その思いを持っていることが当たり前な世界からの眺めは、見るもの、感じるもの、触れるものというのはいつも色褪せていたなぁ~と振り返りますが、それが普通だった幼少時の中にあって、そのこと自体にあまり疑問も持たず生きていました。

事あるごとに気が付けばふと「死にたいな…」と思っている。この絶望感や不信感をなくそうとも思わず、また、その状況から脱出できるかどうか?ということも思い浮かびもしない幼少期でとても脆弱な子どもであったと思います。

そういった状況ですと、日々の暮らしはいつも、「どうなったっていい」「興味がない」という投げやりな姿勢で、集中力も続かなかったり「どうせ○○だし」とすぐに諦めてしまったりする癖が骨身に沁みついていました。

どこかいつもヘラヘラと、「自分の人生を真剣に生きる」ということそのものの意味がずっと分からずにいた幼少期でした。私と関わってくれていた両親、先生、友達たちもきっと「こいつなにを考えているのだろう?」と、困惑していたに違いないと思います。

その後。そんな生き様をもったまま成長した私の日々ももれなく、なにもかもが味気なく色褪せて観え、そこにイキイキとした可能性を見いだすこともなくありました。友達と遊んでいても、思いっきり心から楽しむという感覚がわからず、いつも独特の空虚感が漂っていました。

同時に、「どうなったっていい」と日々思っているわけですからある意味怖いもの知らず、熟考することなく思い立ったらそのまんま突進してしまったりと、とにかく激しい性格も持ち合わせていましたが、その瞬間こそが唯一、「イキイキとした生」を感じるとれる貴重な時間でもありました。

ですので、「日常のつぶさを丁寧に生きる」ということや「自分を大切にする」ということの本来の意味も分からず、無鉄砲さだけが際立っているようなところもありました。

「死にたい」とそう思うこと、又、そこに付随する感情はこのような具合で、日々の根本的な在り方そのものにとてもリアルに影響していました。そのリアルこそが当たり前の日々の中で「私」というアイデンティティーは育まれていきました。

そんな実体験を踏まえ、まず一つ目にご紹介したい考え方は、その「死にたい」という考え、付随する「感情」は、それをどんなにリアルに味わっていたとしても、そのもの自体が「私そのものではない」という考え方です。

幼少時から当たり前の思いとして味わってきた「死にたい」という考えや感情、そこから派生し沁みついていた「性格」そのものが「私そのものではない」ということを、私自身、にわかには信じられませんでした。

生き様そのものを培ってきたこの在り方が「私そのものではない」となったとき、では本当の「私」はどこにいるのか?「それが私だ」、と思って生きてきたことそのものをまるで否定されたかのような感覚さえ覚えました。

けれどもこれは「真実」でした。本当の私は「死にたい」と思う自分でもないし、そこに付随するさまざまなリアルな感情、そのものではない、ということ。

実は本当の私は、「もう一人」いました。「死にたい」と考えること、絶望感や自己不信感を感じること、この二つをありのまま、そのまんま受け入れることができ、その意識の方向性を変換することができる、

「思考・感情を観察する私」こそが「もう一人の私」だったのです。

「死にたい」と思う、その思いそのものから脱出するはじめのステップ、考え方はこの「観察する私を認識する」「本来の私はコッチだょ」と自らに教えてあげることからはじまります。

その思いがあまりにリアルで強烈であればあるほど、「そんなはずないじゃないか!」と、はじめはなかなかうまくいきません。なので一定の根気は必要になってきます。即、「死にたい」という考えや付随する感情にも強烈に引っ張られてしまいます。

けれども、「死にたい」と思ったり感じたりしたときは「これは私そのものではなく、それをありのまま観察する私こそが本来の私だ」ということを都度都度認識し、自分に教え続けていくと、ふと気づいたとき「死にたい」と思うことそのものの状態から脱出できている…ということを体感する瞬間を得ることができます。

2、「死にたい」を感じることが出来る理由

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そんな訳で私は、子どものころから成長し大人になっても尚、それが当たり前であるかのようにふと気づけば「死にたい」と思って生きてきました。

ただ、感覚・直観的に、「自らの手で幕を下ろすのはなにか趣旨が違う」という思いも同時にもっていていたので、幼少期から大人になっての日々は、その思いにすがるようにして生き延びできました。

物心ついてからの成長過程、この時間の流れに沿いながらその思いに変化が訪れることはなく、また、「死にたい」という思いを抱かせる出来事やその思いの質はその時その時移り替わっていきましたが、別のとらえ方をすれば一環して「死にたい」という気持ちを「感じ続けてこれた」ともいえます。

ではなぜ、この成長過程や時間の流れに準じてその気持ちを感じ続けることができたのか?というのが「死にたい」という気持ちから脱出するための考え方、2つ目のヒントです。

この世がこの世として成り立っていること、そこに大きな理由がありました。それはなにか?というと、この世が「二元性、陰陽の世界」で構成されている、というのが理由です。

「熱い」という感覚が得られるのは「冷たい」という感覚が同時に存在しているから。「固い」という現象が成り立っているのは「柔らかい」という現象が同時に存在しているから。

質こそ違えどその対極がバランスよく同時存在し、二つがセットではじめて成り立つ「二元性、陰陽の世界」。この世のメカニズムのいったんを表現するとこのような具合です。

例えばそれを数字に置きかえると、「5」という出力があるとき、質は違えど対局には同じ「5」という出力が必ず存在する、と捉えなおすことができます。

こういった「二元性、陰陽の世界」がどんな場面にも必ず作用しているというメカニズムが「この世」を構成し、成り立っているということです。この世界に身を置く私たちも例外なく、余すところなくこのメカニズムの恩恵、影響を受けて生きています。

この逃れようのないメカニズムそのものを、「死にたい」という思いに当てはめて考えてみると・・・「死にたい」という気持ちを感じることができるのは、その質は違えど対極の「生きたい」という気持ちが存在しなければその思いや気持ち自体も存在せず、感じることもできない、ということになります。

先ほどの数字の例えを応用すると、「10」の出力で「死にたい」と思っていたとすると対極には、同じ「10」の出力で「生きたい」と思う気持ちが存在しないと、「死にたい」という気持ちそのものを感じることができないということになります。

この考え方も、当初の私にはにわかには信じられませんでした。ただただ「死にたい」という気持ちそこだけを常に思い感じてきたのに、「生きたい」と思う気持ちが私の内側のどこにも見いだせなかったからです。

なぜ見いだせなかったか?といえばそれは、あまりにも「死にたい」という気持ちに埋没していたからです。それが骨身に沁み込みすぎて、意識がそこにしかフォーカスしない自分がいたためです。

「生きたい」なんて気持ち、私にはこれっぽっちも芽生えない、そんなものは存在すらない!と感じた時期もありました。「死にたい」という気持ちそのものがすでに安住の地がどこくにまでなっていた、ともいえます。しかしそこを即、認識できなくても、

「死にたい」という気持ちを感じるには必ず「生きたい」という気持ちも同時に、セットで存在している。

ここに、「死にたい」という意識のベクトルを、自らの意志で「生きたい」に変えられる可能性を見いだすことができます。この考え方も、「死にたい」という気持ちそのものから脱出するヒントの一つとしてあげさせていただきました。

3、決してあきらめないこと

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「死にたい」という気持ちが、どんなに根深く、その思いそのものが自らの生き様かのになってしまっていようとも。「死にたい」とう気持ちから脱出する考え方、最後の3つ目のヒントとしてあげさせていただきたいのは「それでも決してあきらめないこと」です。

「死にたい」という気持ちや感情が、日常茶飯事で当たりまえになっているとき、その思いは決してやむことなく、四六時中発動し続けます。

ですので、いくらその考えや感情が私自身ではないとしても、この世に生をとって逃れられない2元性・陰陽の世界のメカニズムでは「生きたい」という気持ちが必ず存在するよといわれても、無意識にしていると即座「死にたい」という状況になっている自分に気づきます。

しかし、ここで最も大切なことは、「あ、また死にたいって考えてる。自分で本当駄目だなぁ」って、自分自身を責めないことです。もういいや、面倒だ・・・って、投げやりになっても、それでもまた「生きること」へと意識を向けようと自分を優しく導いてあげることです。

とても根気がいる地味な作業です。

何度も何度も同じことが繰り返されると、「こんなことしてて意味があるんだろうか?」「本当にこの考え方で脱出なんてできるんだろうか?」という思いも必ず浮上してきます。

それでもです!それでも決してあきらめないこと。決してあきらめず、「自分のこの貴重な人生を真向から真剣に生き抜くこと」「この人生を、自分を信じてイキイキと輝かせること」

私達には、その大いなる可能性がすでに備わっています。

そうしていると、「死にたい」と思ってきたこの思いそのものこそが実は、「真剣に人生を生きる」上での「最高の道しるべ」であったことに、「死にたい」というその思いが人生の恩恵そのものに変容する瞬間を、自らの意志と責任で体感できる奇跡の瞬間を迎えることができます。

4,まとめ

「決してあきらめない」その意志を意識的に選び続けることが私達にはできます。私達は決して「独りぼっち」ではありません。それがどんな状況下であっても、私達の誰しもにみな、そのありのまま全てを観察し受け入れ変容させることができる「もう一人の私」がついています!


       

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