
なにかを選択するとき、損得で決めている自分に氣がついた。
意識的に選択をするときは、損得では決めない。無意識状態の日常の些細な選択のとき、損得で決めることがあった。
一瞬で損得勘定が出てきて、得だと思う方を選んでいた。
あーわたしは損得で決めているんだな、とあるとき自覚した。
それまで、自分が損得で決めているとは思っていなかった。損得で生きたくないと思っていたからだ。
2元性の分離意識で生きるのではなく、ワンネスの統合意識で生きたいからだ。
でも、損得で決めている自分を見つけてしまった。
そして、損得で決めても結局得しないことに氣がついてしまった。
なぜ得しないのか?その理由と、本当の意味で「得」する決め方を考えてみた。
本当の意味で「得」する決め方を活用し、豊かな喜びの人生を!
損得に誘惑されてしまう
例えばスーパーでトマトを買うとき。大きいトマトを買うか、小さいけれどおいしそうなトマトを買うか迷ったとき、大きい方を選んでしまう。大きい方が得だという考えからだ。
おいしい方がいいのに、一瞬の損得の誘惑に負けてしまう。トマトを食べたとき、損したことに氣がつく。遅い。
例えば人と話すとき。自分の氣持ちとは違う、得する返事を、笑顔で言ってしまう。
その場は丸く収まるけれど、自分を裏切って1つ罪をつくったような心地悪さに、自分が嫌になる。得した氣分にはなれない。
例えばスーパーのレジに並ぶとき。順番が早いレジ(得なレジ)を見定め我先に並ぶ。最初に並ぼうとしたレジの方が結局早かったことが多い。損した!と地団駄を踏む。
そのわたしの横で娘は、30秒も違わないのに、とあきれ顔。そのときはハッとするけれど、また次も同じことをしてしまう。
レジでの損得の行動は、障害を持った子どもがいて、自由な時間が限られていた頃の後遺症のようなものだ。人それぞれ、損得には、そんな事情があるかもしれない。
言い訳をしたいところだけれど、時間に余裕がある今は、それは通用しない。肝心なことは、わたしがまだそんなことに縛られている、ということだ。ここは、解放だ。
また、例え事情があっても、損得で決めるか決めないかは別の話だ。
わたしは懲りずに何度も損得で決め、結局得していないことに何度も氣がついた。繰り返した結果、損得で決めるのをやめようと、やっと目が覚めた。
悪い癖を変えるのは時間がかかるものだ。
その「時間がかかるものだ」というその時間こそ、実は損をしている時間、と言えるだろう。
損得勘定しても結局得しない!その理由
そんな体験から、わかったことがあった。
損得で決めると、結局損する羽目になる。
なぜなら、損したくないから。
うん?どういうこと?
損したくないという心の奥には、損するんじゃないか?という強い不安や恐れがある。
一番強く思うことが叶う、というこの世の法則がある。
なので、損するんじゃないか?という一番強い不安や恐れが叶ってしまう、というカラクリだ。
それが、結局得しない、理由だ。
自己観察する癖が役に立つ
損得で決めている自分に氣がついたのは、常々、自分の思考感情を観察する癖がついていたからだ。
些細なところに出てくる見過ごしがちな思考感情を、見つけることができるようになっていた。
損得勘定は、日常であまりにもあたり前にやっていることだったので、氣がつきにくかった。
損得勘定をしている自分に氣がついたことで、その自分を変えるチャンスができた。
損得勘定して決めても結局得しないので、早々に進路変更した方が、それこそ得策だ。
ちょっとここで脱線
自分の思考感情を観察する癖をつけておくと、自分がどういう思考感情を持っているかわかる。
その自分の持っている思考感情は自分を変えることに使える。自分を変えることができると人生が変わる。
自分の思考感情を知ることによって、自分の人生を自由に変えることができる。
自分を知ることは、生きている目的の1つだそうだ。生きる目的でなくても、自分を知るって、一番と言っていいほど興味深くおもしろい。
いいことがいっぱいあるので(本当の意味でお得なので)、自分を観察する癖をつけよう。
こんな損得勘定に辟易!
損得で人を選ぶ。
損得で意見を言う。
損得で態度を決める。
損得で将来を決める。
損得で自分をコントロールする。
損得で買うものを選ぶ。
損得で生きる。
ああ、イヤダイヤダ。
わたしは、もう、損得勘定で人生を損したくない!
損得勘定で人はしあわせになれるのか?
2元性の分離意識の損得は、有限の中の損得だ。得の量が決まっている。得をみんなで取り合うことになる。得する人もいれば損する人もいる。
そういう損得の得は、本当のしあわせにつながるのだろうか?
また、損したとき、人のせいにしてしまうことがある。あの人が悪いからわたしが損をしたと、八つ当たりすることがある。
レジを打つ人が遅いからだ!と心の中で文句を言う。得する言い方をしないと自分が損をする世の中が悪い!と世の中に矛先を向ける。
人のせいにしても、自分が悪いと思っても、どっちにしろ、ネガティブが発生してしまう。
ネガティブな思考感情は運を悪くする。人生を損させる。
しあわせになるとは思えない。
人の価値観で損得を決めていた
この世の価値観、常識、固定概念によって、損か得かの基準が決まる。
つまり、自分の価値観で損得を決めているのではなかった。世の中の価値観で決まった損得に従順に従っていた。自分基準の損得ではなかった。
これ、考えたらすごいことだ。
世の中の価値観で決められた損得を、必死になって追い求めている、ということだ。思いっきり外軸の生き方だ。
人の価値観に従って生きることを外軸という。
自分の価値観で生きる自分軸の人生とは、逆の生き方。
外軸で生きる人生、それはしあわせとは思えない。
ただし!損得で選んでも葛藤がなければよし
2元性の分離意識の損得でも、葛藤がなければよし。
葛藤がないということは、心の奥に不安や恐れがないということだ。
得したい!しかないので、そのままストレートに得したい!という一番強い氣持ちが叶う。つまり、得する、ということだ。
葛藤がなければ、問題なし。
だからと言って、じゃあわたしもそうしよう、とならないところが人生の妙と言える。
本当の意味で得する決め方
損得勘定で決めたけれど、決して得してないことに氣がついた。そしてそのあとにいつも思った。
いいと感じた方を選べばよかったんだ。自分の心が求めている方を選べばよかったんだ。自分軸で決めればよかったんだ。
この世の価値観では損と言われる選択であっても、自分軸でいいと思って選んだものに、損得は発生しない。そもそも自分軸に損得はない。
自分軸の「得」は、無限。人と奪い合うことはない。得したいだけ得できる。損得を超える。
自分軸から選ぶことが「本当の意味で得する決め方」だった。
自分の内側から満足し、一切の不満も後悔もない。
それが、本当のしあわせな状態、と言えるのではないだろうか。
長年の癖は繰り返し削ぎ落とす
この世の価値観の損得で生きてきた長年の癖、習慣は、強力な接着剤でわたしにへばりついてる。なかなか剥がれない。
損得をやめようと思っているの、瞬時に今までの癖で損得で決めてしまっていた、ということが起こる。
繰り返し繰り返し、癖を削ぎ落としていこう。
外軸で有限の得を人と奪い合って生きるのか?
自分軸で無限の「得」を求め生きるのか?
方向を決めれば、そのように人生は動いていく。
最後に
例えば、居酒屋などで、こんなに高い?計算が間違っているんじゃない?と思ったとする。
わたしは、損得勘定が抜けていないとき、居酒屋の会計を疑った。
そんなわたしに、娘は言った。
「わたしは多く取られてもいいと思っているよ。金は天下のまわりものって言うから、どこかでその分が戻ってくると思っている」
ぎゃっふん、だった。
でも、それいいかも。わたしもその考え方を採用することにした。
外軸の損得勘定はもう採用しない。自分軸で本当に望むことを選択する。
統合意識の無限の「得」だから、最強だ。
どんなお得な人生が始まるか、楽しみだ!
と、ここで、終わりにしようと思っていたら、、、
すごいことに氣がついた。
この損得、実は、想像以上に根の深いものなんじゃないか!?
わたしたちが怒るとき、イライラするとき。その怒り、イライラは、損得からきているんじゃないか?
全部がそうだとは言わない。だけれど、怒り、苛立ちは、かなりの確率で、損得につながっているんじゃないだろうか。
損だから怒る。
損だからイライラする。
のではないか、ということに氣がついてしまった。
損得の根は、わたしたちの中に想像以上に根を張っていて、想像以上にわたしたちの人生を支配しているんじゃないか?
と思った。というより、氣がついてしまった。
この根は、わたしたちを有限の枠に縛りつけ、不自由にする。
損得から真に解放されたら、有限を超えた無限の、自由自在の世界が開かれるだろう。
損得の根から、自分を解放しよう!